Lịch sử quan hệ Nhật-Việt ( Japanese ) 日本との関係

Thứ năm - 28/01/2010 03:00

ホイアンにある日本橋、来援橋( Cầu Lai Viễn )

ホイアンにある日本橋、来援橋( Cầu Lai Viễn )
日本との歴史

西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。753年には遣唐使藤原清河阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南ヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。

14世紀から15世紀にかけて交易国家として栄えた琉球王国チャンパ王国とも通好があった。17世紀になると朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府北ベトナムの大越黎朝南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(会安)には日本人町も形成されている。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。

ベトナムの通貨の名称はドンだが、これはベトナムの主要通貨であった銅銭を意味する越語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われていた。1940年日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年には南部にも進駐した。これは、フランスヴィシー政権との外交協議によるものであり、太平洋戦争中も、日本軍はインドシナ植民地政府と共存していた。他方でこの日本軍によるベトナム進駐は有色人種が数百年続いてきた白人至上秩序に初めて亀裂を入れる出来事となり、結果的に有色人世界に影響を与える転機となった。その後、日本軍は1945年3月にクーデターでフランスの植民地政府・軍を取り潰し、ベトナムを名目的に独立(ベトナム帝国)させたが、間もなく敗戦となった。しかし、その結果生じた権力の空白はベトナム独立同盟に有利に作用した。また、駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことは、結局のところ日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないという印象を与えることになった。

第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。餓死者は推計200万人に近いとされる。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている。いずれにしろこの件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。

戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、1954年ジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。

1951年に日本政府はベトナム国南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、1973年に外交関係が樹立するまで日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。

近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中国一極集中のリスクの回避などが挙げられる。

現在、両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。一方、グエン・タン・ズン新首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもある。

日本共産党全教1993年よりフエ市でストリートチルドレン保育教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫日教組分裂 1991.3.6 以前の都教組委員長 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系(現 民主党及び社民党)の活動家政治家と親しく、1994年6月30日から1997年11月7日自社さ連立政権下においてはフエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。

2007年2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構(JICA)、国際協力銀行(JBIC)、日本貿易振興機構(JETRO)が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した。

Tác giả bài viết: Ngô Thanh Tùng

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