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Việt Nam-ベトナム国

Gửi bàiĐã gửi: 05 Tháng 6 2012
gửi bởi admin
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称ベトナムは、東アジア・東南アジアのインドシナ半島東岸に位置する社会主義共和制国家。国土は南北に長く、北に中華人民共和国と、西にラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。首都はハノイ
歴史
紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。また現在の中国、紹興一帯を支配した越の末裔が、民族のルーツとの説もある。秦の始皇帝以後、1000年にわたって中国王朝の郡県支配を受け、中国文化の影響が深く浸透したが、完全に中国化することはなかった。一方中部ベトナムではオーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)がインド化されたチャンパ王国を形成していた。

唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立、以後越人の王朝「大越」が続く。大越は南のチャンパと抗争を繰り返したが、チャンパ領は14世紀に越都昇龍(タンロン)を2度攻略した制逢峨(チェーボンガー)の死後内紛で割拠状態に陥り、1471年以降大越黎朝(1428年 - 1788年)及びその諸侯である広南阮氏がこれらを各個撃破して南進し、広南阮氏は更に17世紀にカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。

2世紀頃から8世紀頃まで
北部 - 漢、隋、唐
南部 - 不明
11世紀前後
北部 - 李朝
南部 - チャンパ王国
13世紀頃
北部 - 陳朝大越国
南部 - チャンパ王国
フランス領インドシナ
1887年 - フランス領インドシナの成立(フランスによる植民地化)
1940年 - 日本軍の北部仏印進駐
1941年 - タイ王国とフランスが交戦。日本政府による仲裁。
1944年 - 凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や駐留日本軍の要請を受けたインドシナ植民地政府による食糧徴発などが重なり北部(トンキン)を中心に200万人以上が餓死した。
1945年3月11日 - 保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助下でベトナム帝国の独立を宣言
南北分断時代
1945年8月17日 - ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠(ベトナム八月革命)。
1945年9月2日 - ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。同日、大日本帝国政府が降伏文書に調印し、第二次世界大戦が公式に終結した。
1946年11月 - ハイフォン(海防)でフランス軍と衝突
1946年~1954年 - フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争)
1949年 - フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。中国、ソ連は、ベトナム民主共和国を承認
1954年7月 - ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする
1960年12月 - 南ベトナム解放民族戦線結成。
1962年2月 - アメリカはサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。
1964年 - トンキン湾事件。以降、1973年まで米軍が戦争に直接介入。
1965年2月 - アメリカは北ベトナム爆撃を開始、本格的な戦争に突入
1968年1月 - 南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢、アメリカは大打撃を受ける
1969年1月 - 南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる
6月 - 南ベトナムで、解放戦線は南ベトナム共和国革命臨時政府建設。ベトナム共和国と対峙。
1972年4月 - アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開
1973年1月 - 南北ベトナム政府、臨時革命政府、アメリカの4者は、パリ和平協定に調印
1975年4月30日 -北ベトナムと解放戦線は春の大攻勢を行い、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏、サイゴンは陥落、ベトナム共和国崩壊。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握。ベトナム戦争終結。[3][4]
南北統一以後
1976年4月 - 南ベトナム消滅による南北統一。初の南北統一選挙を行う。
1976年7月2日 - ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。
1978年12月 - カンボジア侵攻を開始(第三次インドシナ戦争の始まり)。
1979年 - 中国との戦争(中越戦争)、世界各国は援助を停止し、ベトナムは孤立
1986年12月 - 社会主義型市場経済を目指す、ドイモイ(刷新)政策を開始し、改革・開放路線に踏み出す
1989年9月 - 国内経済が疲弊したベトナムは、カンボジアから完全撤兵
1992年 - 越中関係正常化
1995年7月 - クリントン・アメリカ大統領がベトナムとの外交関係樹立を発表。1995年8月5日、ベトナムとアメリカが和解。
7月 - 東南アジア諸国連合 (ASEAN) はベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認める
10月 - 所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる
1996年1月 - ASEAN自由貿易地域(AFTA)に参加する
1998年 - アジア太平洋経済協力(APEC)参加
2003年 - 日越投資協定締結
2007年1月11日 -世界貿易機関 (WTO) に正式加盟した。150番目の加盟国となった。
2007年10月16日 -国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
政治
政治はベトナム共産党(ベトナム戦争中は「ベトナム労働党」)による事実上の一党独裁政治が行なわれている。名目的に存在した民主党、社会党は1980年代末に解散され、複数政党制から単独政党制に移行した。現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。党書記長(党総秘書)、国家主席、政府首相の3人を中心とした集団指導体制であり、現在の共産党中央執行班書記長はノン・ドゥック・マイン、国家元首はグエン・ミン・チェットであり、政府首相はグエン・タン・ズン。
建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、故ホー・チ・ミン主席も独裁的な権力を有したことはなく、ベトナム戦争中の一時期には失脚に近い状態にあったとも言われている[誰?]。政府の運営は、極めて官僚的であり、同じく一党独裁国である中華人民共和国に類似している。

ベトナムの国会は、2006年6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(党ホーチミン市委員会委員長、「城委秘書」)を選出した。また、国会は引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を選出した。国会は、28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸相は同省傘下の疑獄事件で指導責任を問われ、事実上更迭された。

反政府組織は今なおベトナム共和国時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた諸民族の抵抗組織フルロ(FULRO)関係者はこれらの組織とは対立関係にあり、各組織の力を一つに集めることができるリーダーシップを有した指導者が存在しない。また、1975年のベトナム共和国消滅から30年以上経ち、世代ごとの反共主義に対する考え方の違いが鮮明になりつつあることから、最近では必ずしも亡命ベトナム人の間で反政府組織が支持されるとは限らなくなっている。
Tác giả bài viết: NTT